プロフィール/記事


厳粛から熱狂へ


De la solemnidad al frenes

厳粛から熱狂へ
by『エル・ボセーロ』紙ライター、ホルヘ・ロドリゲス

Photo01 ブルガリア発ープエルトリコ人俳優オズワルド・リオスが、ブルガリア共和国で確実なものにしたのは、親しみ易い、彼の人間的な横顔を見せたことで、同じ言語を話さない民族から得られた深い理解だろう。
 そのため、イベントごとの彼の語りのひとつひとつから、人々はテレビの役柄とは異なる、道理にかなった考え方をもつ、この驚くべき人物を少しずつ見出していった。そして、彼は耳をかたむける全ての人のそばで、テレビでのようにブルガリア語に吹き替えすることはなく、スペイン語で話した。もちろん、通訳はついていたのだが。

 通訳を武器として、彼はいろいろな経験をし、他の人々同様に、とても傷つき易く、議論好きで、情熱的な、そして彼が告白したところによると、とても大食漢の、血のかよった生身の、一人のアイドルの姿を見せることで、ブルガリア人と、プエルトリコ人の間の類似性を明らかにしていった。そのため、彼の周囲の全てはみな、厳粛から熱狂にと変わっていった。

 多くの素晴らしい瞬間のひとつは、中世に建設されたブルガリアの最初の首都、ヴェリコ・タルノボ市を訪れた時だった。印象的な夜のスペクタクルショー「聖像と音」の一部となる、いくつかの宗教壁画が昔のままの姿で保存されている、木造の古い僧院を訪れた。ここで感じた最初の敬意で、彼はどんな民族も他の民族を尊ぶことができることを初めて確信したのだ。
 そのため、この訪問の主な目的に従い、Asen Zlatarov孤児院のための資金集めをした。この孤児院は、ソフィアのNadazda地区にあり、何百人もの身寄りのない子ども達が一緒に生活している。このことで、心理学者でもあるリオスは、社会的な問題にも直接かかわることができた。彼はさまざまな手段で、毎日村から村へと訪問を続けた。

Photo02 しかし何日か後に、彼は最も多くの、彼を待ち望む人々に迎えられることになった。先週の日曜に彼がアレクサンダル・ネフスキー大聖堂のミサに行くことが報告されたとき、誰もまさか何千もの人々が押し寄せるとは想像しなかったのだ。
ファンが彼の後を追った

 群集をコントロールし、リオスが前進できるようにするには、Palacio Jrankov ホテルと、たくましいプライベート・ガードマンのスコルピオと、50人ほどの警備隊を形成した国家警察の、全力の警備が必要だった。大混乱は、ミサのさなかの大聖堂にまで押し寄せ、ブルガリア正教の僧侶たちは、興奮した何千もの人々を鎮めようと、厳粛な聖堂でミサを中止せざるをえなかった。
 もはやコントロール不可能な群集は、彼を取り囲み続け、リオスと彼のお供は、無傷で抜け出せるよう何度も群集をかわさなければならなかった。アイドルは、Nadezda地区でも同様の状況で歓迎を受けた。そこには貧しい人々が、同じような感激と愛情で彼を待っていたのだ。

 百号記念の雑誌Paralleliは、前もって家族の写真付きで彼の伝記を発表していた。これはそれまでのどんな広告よりも、人々を動かし、子ども達までが、アーティストの息子、ギゥリアーノと知リ会いになろうとした。彼らはギゥリアーノに、父親がプエルトリコにもっていってくれるようにと、人形や手紙、カードや絵を描いた厚紙などを贈った。『ラ・ビウダ・デ・ブランコ(ブランコの未亡人)』ではコロンビア平原の民であったリオスもまた、ブルガリアの聖画、僧院の歴史や国家宗教に関する本、有名な画家の絵画、ワイン、祝福、手工芸家による古いマスケット銃にいたるまで、贈り物として受け取った。

 このような行動範囲で、彼のミステリアスな行程は続き、国会まで訪問した。そこで彼は、ソフィアにおける短い滞在で、競技場や、若者達がスポーツを楽しむことのできる場所はひとつも見なかったとさえ言った。何時間ものベータル・ストヤノフ大統領との親しげな会見の後で、
 「愛を与えられなかった子どもは社会に問題をひきおこす」
 と示唆した。


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